この日、石田はM社の営業担当者である工藤と一緒に、不動産屋がみつけてきた物件を見に行くことになった。
開業の夢を現実にするには、まず条件の合った物件を見つけなければ何も始まらない。
不動産の担当者が運転する車の後部座席に座っている石田と工藤。
石田が口を開く。
「先日の森川先生のお話を聞くと、夢と現実の両方をしっかりと見据えないといけないと感じました。」
黙って頷く工藤。
「そうですね。理想と現実は違いますから・・・ただ、理想を諦めることはないと思います。少しでも理想に近づけるよう、私も頑張りますので、石田先生も元気を出して下さい。」
「ありがとうございます。頑張ってみます。」
微笑む石田。
「ところで、石田先生はどうして歯科医師になりたいと思われたのですか?」
「実は・・・私は子供の頃、歯医者に行くのが死ぬほど嫌だったんです。工藤さんもそうだったでしょ?」
「嫌でしたねぇ・・・正直言うと、今でも嫌ですが・・・」
苦笑する工藤。
「でも、小学校6年の時に通っていた歯医者さんの先生は、とても優しかったんです。治療中でも『もう少しだから頑張って』と何度も励ましてくれて・・・終わったらいつも『よく頑張ったね』と褒めてくれたんです。」
黙って聞いている工藤。
「おまけに、帰る時にはいつも『虫歯にならないチョコレート』なんかくれるんです。子供の時って単純ですから、そういうのって嬉しいじゃないですか?」
「そうですね。」
「歯医者に行ったら何か良いことがある・・・なんとなくそう思うようになって、いつか自分でそういう歯医者がつくれたらなぁ、なんて漠然と考えるようになったんです。」
工藤、頷きながら
「良い話ですね。是非、先生にはそういう理想の歯科医院を作っていただきたいと思います。」
石田、少し照れながらも
「ありがとうございます。」
笑顔で答える。
車が止まり、運転手である不動産の担当者が、石田と工藤を振り返る。
「石田先生、着きました。」
とある、空きテナントの前。
車から不動産の担当者、そして石田と工藤が降りてくる。
先導する不動産の担当者。
「石田先生、こちらです。先ほどの物件よりも駅に近い分、人通りも多いですし、競合のクリニックもありません。今日ご紹介できるのはこれで全部です。」
石田、小さく頷きながら
「今日の中ではここが一番良いと思うのですが、暫く考える時間をもらえますか?。」
不動産の担当者が少し困った表情で
「石田先生、即決とは言いませんがなるべく早く決めて下さい。早く決めないと最悪の場合、他の方が先に契約されてしまいます。」
石田、むっとした表情で
「それはわかっていますが・・・もう少し他も見て検討・比較しないと決められませんよ。人生で一番の大きなイベントなんですから・・・そんなに簡単には決められません!」
3人の間に気まずい空気が流れる・・・。
自宅への帰り道。1人で街並みを歩く石田。
「悩むよなぁ・・・早く決めろと言うのはわかるけど、本当にあそこでいいのかなぁ。」
ふと石田の目の前に1件の歯科医院があることに気が付く。
石田、近づいてみる。
「あれ、こんなところに歯科医院ってあったっけ?」
中を覗き込む。
入口には開業祝いらしき花束がみてとれる。
「まだオープンしたばかりみたいだな・・・え?待てよ。ということはこの間まで、こんないい条件の物件があったということ?」
暫し呆然とする石田。
「うーん、もっといっぱい物件を探して勉強しないと!」
いきなり早足で歩き出す石田。
石田の自宅。FAXから出てくる大量の物件情報。
あれから石田は、数件の不動産屋へ出向き
「歯科医院を開業したいので、物件を紹介してください。」
と話をしてきた。
どの不動産屋も気前良く
「そうですか、わかりました。どんどんFAXで情報をお知らせします」
と笑顔で答える。
確かに、物件情報は次から次へと送られてきた。が・・・
「たったの10坪?・・・森川先生は25坪って言っていたし・・・こっちはビルの8階か・・・こんな目立たないところは無理。この1週間毎日毎日FAXで送ってくるけど、良い情報は全然無い・・・やっぱり開業のプロじゃないと頼りにならないか・・・」
その時、石田の携帯に着信がある。相手は工藤であった。
「石田先生、すみません。先週ご紹介した物件ですが、本日別の方が契約されたそうです。」
「え?たった1週間で?」
驚き、続いて落胆する石田。
「そうですか・・・残念ですが、仕方ありませんね。」
「それで新たな物件を現在リサーチしています。良い物件が見つかり次第、すぐにご連絡さしあげます。」
「わかりました・・・宜しくお願いします。」
電話を切る石田。大きく溜息をつく。
良いと思われた開業物件は先に契約され、振り出しに戻ってしまった石田。最初の一歩が中々踏み出せないまま、時間ばかりが過ぎていく・・・。