
歯科開業NET小説 チャプター05 「お金のことは言えない」
	
	
						あるテナントビル1階の一室。
						無事、気に入った物件の契約を締結した石田は、工藤と一緒にさなえを連れてその場所に来ていた。
						がらんとした室内を物珍しげに歩き回るさなえ。
						そのさなえに石田はついてまわり、いろいろと説明をしている。
					
「入口があっちで、そこが待合室。受付はここで、あちらにチェアを並べて・・・」
身振り手振りを交えて、一生懸命説明する石田。
						石田の説明に耳を傾けるさなえ。
						そんな2人から少し離れて、工藤が立っている。
						「ふーん、思ったより広いね。天井も高いし。」
						あたりを見回すさなえ。
						「そうだろう?いっそのこと、さなえもOLやめてここで働くか?」
						石田が得意気に言う。
						「私は普通のOLだから、それは無理。お役に立てません。」
						頭を下げて、笑顔で答えるさなえ。
						「そうだなぁ。あ、ごめん、まだ工藤さんと打合わせがあるから、駅まで送っていくよ」
						立っている工藤に視線をうつす石田。
						「いいよ、駅すぐそこだから。」
						さなえが駅の方角を軽く指差す。
						「そうか。ごめんね。」
						石田とさなえ、出口のほうへ歩き出し、工藤もそれに続く。
					
						石田と工藤の2人と別れ、駅までの道を1人で歩くさなえ。
						子供が元気に遊ぶ公園を通り過ぎる。
						楽しそうな子供たちを見ながら、少しだけ微笑むさなえ。
					
	
						ふと真剣な表情になり、立ち止まる。
						「本当に大丈夫かなぁ・・・歯科医師としては立派な人だと思うけど、経営者じゃないし・・・家賃30万円ってどうなんだろう・・・聞きにくいけど、お金大丈夫かなぁ・・・」
					
大きくため息をつき、再び歩き出すさなえ。その足取りは心なしか重い・・・。
						マンションの一室。さなえの自宅である。
						リビングで、年賀状の束から何かを探しているさなえ。
						「ええっと・・・あ、あった、あった。」
						1枚の年賀状を取り出す。
						年賀状の裏面には、綺麗な歯科医院の写真が印刷されており、
						「新開歯科医院は、おかげさまで5周年を迎えることが出来ました。」
						の文章が記載されている。
						その下には、手書きで次の文面が書き添えてあった。
						『さなえは結婚まだかな?私は開業医としてすっかりキャリアウーマンになってしまいそう(涙)  新開聖子 携帯・・・090-1234-5678』
						「聖子さん、元気にしてるかなぁ・・・歯科の知り合いって聖子さんだけだし、開業のことを聞いたら教えてくれるかしら・・・。」
						年賀状を見つめて暫く考え込むさなえ。
						意を決して携帯を取り出し、葉書に書かれた番号を押す。
						何回かの呼び出し音のあとに、相手が電話に出る。
						「もしもし、新開です。」
						携帯電話を持ち直すさなえ。
						「あ、聖子さん?ご無沙汰しています、叶さなえです。」
						携帯から元気そうな声が響く。
						「あ~、さなえちゃん?久し振り。元気にしてる?あ、最後に会ったのっていつだっけ?」
						新開の声にほっとするさなえ。
						「聖子さんの開業1周年記念パーティ以来です。」
						「あ~、そうそう。そういえば、あの時一緒に来ていた歯科医の人とはまだ付き合ってるの?ひょっとして結婚の報告?」
						おどけたような新開の声が響く。
						さなえ、困惑しながらも
						「いえ、交際はしていますが、まだ結婚は・・・」
						一瞬の沈黙をはさみ、口を開くさなえ。
						「実はね、聖子さん。彼、開業するの。」
						「え?そうなの。それはおめでたいわね。あなた、院長夫人じゃないの。」
						「そ、それはそうなんですけど・・・聖子さんに聞いてもいいですか?開業って簡単にできるものなんですか?聖子さんのところは家賃っていくらぐらいですか?」
						「え?、家賃?どうしたの、さなえちゃん?」
						電話の聖子の声が心配そうに変わる。
						「歯科医って1日いくらぐらい稼げるのですか?もし失敗したらどうなるんですか?」
						「ちょ、ちょっとさなえちゃん、落ち着いて。何かあったの?」
						「私・・・不安なんです。開業ってどういうことかよくわからないし、本当に必要なことなんでしょうか?」
						少しだけ時間を置いて聖子の声が答える。
						「さなえちゃんの気持ちはよくわかるわ。でも、そんなに心配しなくても大丈夫よ。彼がちゃんとしているから。だから、落ち着いて。」
						その時、聖子の声の後ろからチャイムの音が響いた。
						「あ、さなえちゃん、ごめん。お客さんがきたみたい。とりあえず、一旦電話を切るわね。」
					
「あ、聖子さん・・・」
切られた携帯電話を握り締め、思いつめた表情のさなえ。
良い物件を契約したことで、すっかり有頂天になっている石田には、さなえの不安など知る由もなかった。さなえの不安な気持ちは行き場を失ったまま、開業への道はまだまだ続く・・・